第61号
「あけび通信」第61号をお届けいたします。
○-●-○-●【書評ご案内】色平哲郎/著『農村医療から世界を診る 良いケアのために』○-●-○-●
定価 2200円(税込み)
46判 378ページ
ISBN:978-4-87154-202-9
https://akebishobo.com/product/ruralmedicine
「『裏』太郎山通信」に掲載された同主筆の桂木惠さんの書評を転載いたします。
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医療は、より多くの人々の幸せと平和な社会に貢献すべきもの
佐久総合病院医師の色平哲郎先生の最新刊紹介です。
コロナ禍のまっただ中にある今、信州の山里や大都市、そして世界中のあらゆる場で多くの人が不安と出ロの見えない閉塞感に包まれているようです。
(それでも人々はルーティンを淡々とこなし、その中にはよろこびや楽しみもしっかりとあるのですが。)
そうしたこの時機に刊行された本書は、まさに時宜を得た良書といえます。
小生が一読してまっ先に感じたのは、2022年1月15日、大学共通テストの朝に起きた受験生などへの殺人未遂事件でした。
容疑者は 17才の名古屋に住む高校生でした。
事件の概要はマスコミで大きく報道されましたので、繰り返しません。
さて感じたことです。
およそ現実的ではないかも知れませんが、件 (くだん) の少年が本書を読んでいれば事件など起こさなかったのではということなのです。
あるいは、少年の身近な周りに本書のメッセージのいくつかを伝えるような大人がいてくれたら、と感じたのですね。
事件の動機を読み解く大きなキーワードとして、「東大」「医学部」「成績」があげられます。
少年が前者の二つを最高に価値のあるものとしてとらえた背景には、それらを保持すれば、今の社会は自己の価値を最高のものとして評価してくれるものだと信じていたからだと推察できます。
さらには高い経済的な安定も付加されることも魅力だったのかもしれません。
そしてそれらを得るパスポートが「成績」であると考えていたことも伝わってきています。
しかし、これらのキーワードは事件を起こした少年だけでなく、世間一般にもほぼ常識としてとらえられています。
彼はそれらを得ることが思うに任せないという悲観から自己破減にも繋がりうる犯罪を起こしたことが読み解けます。
(この事件に対して少年の通う高校もコメントを出しましたが、違和感がありました。
「学業だけがすべてではないという指導をしていたのだが」というものでした。
この高校もまた「学業」を上記の三つのキーワードでしかとらえていなかったのでしょうか。)
それに対して真っ向から異を唱えているのが本書だ、と感じたのですね。
著者はまず、医学・医療は、「みんなのものであ」り、それゆえ「権威づけやお金もうけに使ってはいけない」という加藤周一のことば(本書P5・・・以下P数のみ)を引用して、医学や医療を人々をより幸せにするための社会的インフラとしてとらえています。
別の言い方をすれば、難関とされる大学医学部を経て医師になったとしても、その「受益」は、個人のものでは無く広く社会に還元されなくてはならないということです。
件の少年に、「なぜ君は医師になりたいのか、なぜ東大なのか」という問いを発した親や教師が彼の周りにはいたのでしょうか。著者は、「医者らしく生きていく」のではなく「医者として食っていく」人が多い現実を悲しい目で見つめています(P139)。
そのことはいっぼうで、経済格差がそのまま医療格差につながり、果てには命の格差にまでつながっていくという現実があります。
件の少年には、さらに続けて「君はどんな医者になりたいのか」「医者になってどういうことをしたいのか」と突き詰めて問うべきだったと思うのです。彼の周りの大人だけを責めているのではありません。
日本という国は、医学部に限らず異常に高すぎる大学授業料もあいまって、大学で学ぶことによって得られる知見や技術、ノウハウといったものを全て個人の狭い「受益」の領域に狭めてきました。
教育や学間を個人や私企業の「受益」にのみ貶める風潮は、 医学だけでなく今や経済学や法学など広範囲におよんで、社会を蝕んでいます。
例えば、より多くの人々に暮らしの豊かさを保障するはずの経済学は、金儲けの手段としてのみ認知されているようですし、元来公正で平等な社会を実現し、人権保障の砦であったはずの裁判所の中には、政権への「忖度」と裁判官の栄達を最優先したのではと疑いたくなるような判決を出した事例もありました。
メディアの世界にも、近年とみにそれを感じるようになった方も多いと思います。
小生の長く関わってきた教育の世界でもそうした流れとは無縁では無いでしょう。
心したいと思います。
しかし、この「何のためにその職業を選んだのか」「どんな〇〇 (職業や立場) になりたいのか」と最も厳しく問われなければならないのは、或いは私たちが問うべきは政治家だと思うのです。
とりわけ政権政党に所属してる政治家やその意を受けて動いている官僚には、よりいっそう糺したいと思うのです。
なぜなら、この国で暮らす人々の命とくらし、そして未来を握っているからです。
17才少年の刃は、彼らこそ受け止めるべきだったのではと思うのです。
著書の本業は内科医ですが、その興味や研究対象は、社会学から経済学・歴史学から政治にいたるまで縦横に
広がります。
医学や医療が直面している問題ではあっても、専門領域だけではカバーしきれないし解決の糸口すらっかめな
いことを、日々の臨床で感じているからです。
例えば今目前にある極めて深刻なコロナ禍を収東させるためにも、医療従事者はもちろん政治家や官僚、経済学はもちろん哲学や歴史学の知見も必要とされることを例証しています。
筆者が引用しているJ. Sミルの「経済学者でしかない人は、おそらくよい経済学者ではない」 (P9)は、至言です。
著者の勤務する佐久総合病院の究極の目標は、「医療を通じての民主化」 (P140) だといいます。
それはまた、創設者であり著者の敬愛してやまない若月俊一名誉院長の目指したものでもあります。
戦争の惨禍を知り尽くしていた若月の言葉、「私たちが健康の問題を懸命に取り上げているのは、 それが平和の問題に大きく結びっくからこそである」(P103)は、私たちの胸にも深く響きます。
若月名誉院長の名を冠した若月賞を2002 年に受賞したのは、アフガニスタンで奉仕活動中テロリストによって殺害された中村哲医師でした。
彼が受賞スピーチで語った「まず生きていなければ病気も治せない」 (P281) は、常に戦禍に晒されている場所で献身的に働いてきたからこその強い心の叫びでした。
政権中枢の政治家たちの何人が、この言葉を真摯に聞こうとしたでしょうか。
本書のテーマは直接的には医学や医療に関わるものですが、そこで語られる問題点や解決に向けてのヒントは、普遍性を持っています。
糸口のヒントは、 もう一つの「プランB」といえるかもしれません。
「プランB」 とは兪炳匡(ゆうへいきょう) 医師の造語(『日本再生のための「プランB」』集英社新書2021) です。
今日の大きな社会問題にまでなっている経済格差による不都合な現実を直視し、「日本に住む全住民の衣食住を充足させる」(P336) ための提言です。
ちなみに兪炳匡医師は医療経済学者でもあります。
著者に薦められて小生も本書を読みましたが、付箋だらけになりました。
さて、コロナ禍による死亡者です。
日本政府やメディアはあまり報道していませんが、著者は東アジア・オセアニア諸国の中で突出して多い (P330) と指摘します。
理由の一つとして、 日本社会の構造的な欠陥をあげています。
それは、「専門家自治」がなく、医療従事者も患者も国家による支配の対象としてしか位置づけられていない
という社会のあり様の問題です。
こうした国家をトップとする上下関係では、国民の権利や利益は守られないという指摘は重要です。
今も起きている 「自宅療養」という名の国家による患者の放置は、すべての国民が等しく医療を等しく受ける権利があるという基本的視点が欠落していたからだといえます。
こうした事態を改善するための責務は、社会全体に帰せられています。
国家による上意下達が「専門家自治」を奪い取り、社会全体の利益を損なっているという事例は他にも多々あるからです。その一つが教育です。
例えば2022年4月からそれまでの日本史や世界史という科目がなくなり「歴史総合」が新設されるのですが、問題にしたいのはその是非ではなく決定過程です。
今回の指導要領改定による教科再編に限らず日本の教育行政すべてにわたって実質的に決定に関わってきたのが中央教育審議会(中教審)です。
同会は「学識経験者」を中心とした文部科学大臣の諮問機関ですが、委員に指名された30名のうち最も多いのが大学関係者です。
続いて知事や教育委員会などの行政職、中学校長や高校長などの管理職となっています。
驚くことに、小中高で普段生徒に接している教員が一人もいないのです。
ここでも「専門家自治」のないところで教育の根幹が決められているのですね。
ちなみに中教審会長は第一生命会長です。
「歴史戦」といった挑発的な物言いで植民地支配や侵略戦争の史実を覆い隠し、歴史の捏造までする政治勢力もまた、同種かもしれません。
研究者による長期にわたる学問の積み重ねやていねいな史料解読などの学問的成果を一顧だにせず、 国家の力で自己の偏狭なイデオロギーの下に置こうとしているのですから。
著者は所謂旧帝大医学部出身の医師という経歴ですが、決してその属性に寄りかかりません。
それどころか誰からも貪欲に学ぼうというスタンスを堅持しつつ必死に「プランB」を模索しています。
そのいっぼうで、読者に対して厳しい「叱咤激励」のメッセージも発しています。
「農民の問題は農民自身の組織によって解決する」ことが「基本姿勢」だという若月のことば(P3) を引きながら、眼前の問題はその当事者がまず組織的に動くことの重要性を訴えています。
重篤な病気にかかったかのような今の社会に大きな不満と不安を抱えてている人々に向けて、「ではあなたはその解決に向けて何をしようとしているのですか」と問いかけ、座視することを戒めているかのようです。
拙稿の締めくくりに、述べておきたいことがあります。
それは、深刻で明るい出ロの見えにくい問題を語りながらも本書の読後感はさわやかだということです。
理由は大きく二つあります。
まず一つは、著者自身あれこれ迷い戸惑いながら生きているという、いわば人としての弱さを隠していないという点です。
そこには、 同じ弱い人間同士助け合っていきましょうという暖かいメッセージも込められています。
もうひとつは、若月名誉院長はじめ尊敬し信頼しうる多くの人々との出会いから生まれた確かなオプチミズムを読みとることができる点です。
前述した17才少年にこそ読んで欲しかった、改めてそう感じた次第です。
※紙幅の都合でここで筆を置きますが、書きたかったことはもっとあるのです。
【3月3日発売予定新刊】
■琴天音/著
『体内時計にも個性があります』
定価 1760円(税込み)
46判 212ページ
ISBN978-4-87154-203-6 C2047
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■一ノ瀬正樹、児玉一八、小波秀雄、髙野徹、高橋久仁子、ナカイサヤカ、名取宏/著
『科学リテラシーを磨くための7つの話―新型コロナからがん、放射線まで』
定価 1980円(税込み)
ISBN978-4-87154-204-3 C3040
A5判 184ページ
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■堀有伸/著
『「ナルシシズム」から考える日本の近代と現在』
定価 1540円(税込み)
ISBN 978-4-87154-205-0 C3036 ¥1400E
46判 156ページ
https://akebishobo.com/product/narcissism■冨田宏治/著
『維新政治の本質 組織化されたポピュリズムの虚像と実像』
定価1760円(税込み)
46判 204ページ
ISBN978-4-87154-206-7 C3031
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【3月20日発売予定新刊】
■イラク戦争の検証を求めるネットワーク編
『イラク戦争を知らないキミたちへ』
定価1760円(税込み)
ISBN 978-4-87154-207-4 C3031
46判 226ページ
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【好評発売中】
■色平哲郎/著『農村医療から世界を診る 良いケアのために』
https://akebishobo.com/product/ruralmedicine
定価 2200円(税込み)
46判 378ページ
ISBN:978-4-87154-202-9